パラ陸上メダリスト上与那原寛和さん(55)死去 沖縄・海中道路の追突事故が問う公道練習の盲点

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沖縄県うるま市の海中道路(かいちゅうどうろ)で発生した追突事故が、パラスポーツ界に大きな衝撃を与えている。

2026年9月19日早朝、練習中の車いすランナーに軽貨物車が後方から追突し、被害者は意識不明の重体となった。

その人物は、北京パラリンピックで沖縄県勢として初めての銀メダルを獲得した上与那原寛和(うえよなばる・ひろかず)さん(55)だった。

事故から1週間後の9月26日、上与那原さんは脳ヘルニアの疑いで亡くなったことが発表された。

4大会連続でパラリンピックに出場した「レジェンド」の死は、公道で練習する障がい者スポーツ選手の安全という重い課題を、あらためて突きつけている。

早朝の海中道路で何が起きたのか

事故が起きたのは2026年9月19日、午前6時25分ごろだった。

場所は沖縄県うるま市与那城の県道10号、通称「海中道路」の一部である平安座海中大橋(へんざかいちゅうおおはし)付近だ。

海中道路は勝連半島と平安座島を結ぶ全長5.2キロの道路で、片側2車線の直線が長く続くことから、以前から沖縄県内のランナーやサイクリストの練習場所として知られていた。

上与那原さんは競技用車いすで浜比嘉島方面へ向かう左側車線を走行していたところ、後方から来た軽貨物車に追突された。

事故当時は朝日が進行方向から差し込む時間帯で、逆光による視界の悪さも影響したとみられている。

搬送時、上与那原さんは脳挫傷や肺挫傷、首の骨折などの重傷を負い、意識不明の重体だった。

その後懸命な治療が続けられたが、9月26日午後5時9分、脳ヘルニアの疑いで死亡が確認された。

事故から死亡確認までは、わずか1週間という短い時間だった。

▶ 事故発生:2026年9月19日午前6時25分ごろ、沖縄県うるま市の海中道路(平安座海中大橋付近)

▶ 死亡確認:2026年9月26日午後5時9分、脳ヘルニアの疑いで死去

▶ 経歴:2008年北京パラリンピック男子マラソン(T52)で沖縄県勢初の銀メダル

▶ その他:4大会連続パラリンピック出場、2025年世界選手権で銀メダル2個

頸椎損傷から「県民栄誉賞」へ 上与那原寛和さんが歩んだ道

上与那原寛和さんは沖縄市出身。

28歳のとき、自身も交通事故に遭い、頸椎(けいつい、首の骨)を損傷して車いすでの生活を余儀なくされたという経歴を持つ。

その後32歳で車いす陸上競技に転向し、本格的なレーサーとしての人生を歩み始めた。

37歳で迎えた2008年の北京パラリンピックでは、男子マラソン(T52、下肢や体幹に障がいのある選手向けの車いす種目クラス)で沖縄県勢として初めてとなる銀メダルを獲得した。

この快挙を受けて、上与那原さんには沖縄県から県民栄誉賞が贈られている。

北京大会を皮切りに、上与那原さんは4大会連続でパラリンピックに出場するという偉業を成し遂げた。

2021年の東京パラリンピックでは、男子車いすT52クラスの400メートルと1500メートルの両方で銅メダルを獲得している。

さらに2025年10月に行われたパラ陸上世界選手権でも、同じ400メートルと1500メートルで2位となり、2つの銀メダルを手にした。

つまり上与那原さんは、55歳になってもなお、世界トップクラスの成績を維持し続けていた現役選手だったのである。

大会 種目 結果
2008年 北京パラリンピック マラソン(T52) 銀メダル
2021年 東京パラリンピック 400m(T52) 銅メダル
2021年 東京パラリンピック 1500m(T52) 銅メダル
2025年 パラ陸上世界選手権 400m(T52) 銀メダル
2025年 パラ陸上世界選手権 1500m(T52) 銀メダル

一度は事故で人生を大きく狂わされながら、それをきっかけにパラスポーツの世界へ飛び込み、20年以上にわたって沖縄の障がい者スポーツを引っ張ってきた存在だったと言える。

筆者としては、この経歴を知れば知るほど、今回の事故が単なる「不運な出来事」では済まされない重さを持っていると感じる。

28歳での事故から車いすの人生を選び、そこから世界の頂点を目指した歩みは、多くの人に勇気を与えてきたはずだ。

沖縄県内では、車いすマラソンをはじめとする障がい者スポーツの競技人口が本土に比べてまだ限られており、上与那原さんはその環境の中で自ら道を切り開いてきた存在でもあった。

県民栄誉賞という形で功績が正式に評価されたのも、沖縄のパラスポーツ史においてそれだけ大きな出来事だったからだろう。

単発の代表選手として終わらず、4大会にわたって出場を続けたという継続性こそ、上与那原さんの最大の功績の一つだったのではないかと筆者は考える。

「見えなかった」という証言 事故はなぜ起きたのか

事故を起こしたのは、同じ沖縄市に住む65歳の男性会社員だった。

男性は軽貨物車を運転しており、警察の調べに対して「競技用車いすは見えなかった」と説明しているという。

競技用車いすは車輪が小さく車体も低いため、後方から見た場合に一般的な自転車やランナーよりも視認性が低いという指摘は以前からある。

加えて、事故発生時は朝日が進行方向から差し込む時間帯であり、逆光によって視界がさらに悪化していた可能性が高い。

沖縄県警は、事故の詳しい原因や、運転していた男性に過失があったかどうかについて調査を進めている段階だ。

現時点で立件の有無は明らかになっていないが、被害者が死亡した以上、今後は過失運転致死としての立件が検討される可能性が高いとみられる。

筆者の見解としては、「見えなかった」という証言だけで済ませてしまうのは危険だと感じる。

海中道路は観光客も多く利用する見晴らしの良い直線道路であり、スピードが出やすい環境だからこそ、後方からの注意義務はより厳しく問われるべきではないだろうか。

実際、片側2車線で信号も少ない直線道路は、ドライバーが油断しやすい場所でもある。

練習する選手側の対策だけでなく、こうした「危険が潜む快走路」そのものの見直しも必要になってくるはずだ。

観光地としても知られる海中道路では、レンタカーを含む不特定多数のドライバーが通行しており、地元の交通事情に不慣れな運転者も多いという特殊性がある。

「見えなかった」という言葉の背景に、こうした土地特有の事情が重なっていた可能性も否定できないだろう。

法律上は「歩行者」 競技用車いすが抱える公道練習のジレンマ

あまり知られていないことだが、マラソン用の競技用車いすは、日本の道路交通法上「歩行者」として扱われる。

車両ではなく歩行者という扱いになるため、実際には車道の左側を走らざるを得ないという、法律と実態のあいだにねじれが生じているのが実情だ。

そのため競技用車いすの選手たちは、公道で練習する際にさまざまな工夫を自主的に重ねてきた。

▶ 反射材付きのヘルメットやベストを着用する

▶ 車輪の回転に合わせて発光するライトを取り付ける

▶ 後続車との車間距離を確保しながら走行する

しかし、こうした装備はあくまで選手側の自助努力であり、ドライバー側に「競技用車いすが車道を走っている可能性がある」という認識を義務付ける制度は整っていない。

音楽を聴きながらの走行が致命的な事故につながりやすいとされるのも、後方から迫る車の接近音やクラクション、緊急車両のサイレンに気づけなくなるからだ。

上与那原さんのようなトップ選手であっても、練習場所の多くは専用施設ではなく一般道路に依存しているのが現実である。

沖縄県内には車いすレーサー向けの専用練習コースが十分に整備されていないとの指摘もあり、今回の事故は、選手個人の注意力だけに安全を委ねる仕組みの限界を浮き彫りにしたと言えるだろう。

筆者としては、今回のような悲劇を繰り返さないためには、選手個人の自己防衛策だけでなく、行政や道路管理者側が「車いすレーサーが練習で使う可能性がある道路」を把握し、注意喚起の標識設置や取り締まりの強化など、具体的な対策に踏み出す必要があると考える。

パラリンピックでメダルを量産する選手を育てながら、その練習環境の安全性が置き去りにされてきたとすれば、それは競技団体だけの問題ではなく、社会全体で向き合うべき課題ではないだろうか。

近年、自転車の車道通行に対しては専用レーンの整備が各地で進められているが、競技用車いすについては、そうした議論の対象にすらなっていないのが現状だ。

今回の事故を機に、車いすレーサーの練習環境についても、自転車と同様の視点で見直しが進むことを期待したい。

「優しいバルさん」を悼む声、沖縄パラスポーツ界の大きな損失

上与那原さんの死去が伝えられると、沖縄県内のパラ陸上関係者や障がい者スポーツ団体からは、悼む声が相次いで寄せられた。

関係者の間では「優しいバルさん」という愛称で親しまれ、後進の指導にも力を入れていたことで知られている。

沖縄県勢として初めてパラリンピックでメダルを獲得した先駆者であり、県内の障がい者スポーツの普及・振興を長年にわたり牽引してきた「顔」のような存在だった。

55歳になっても世界選手権で銀メダルを2つ獲得するなど、競技者としての実力は衰えておらず、今後も後進の育成と選手としての活動を両立させていくことが期待されていた。

それだけに、今回の事故による突然の死は、沖縄のみならず日本のパラスポーツ界全体にとって大きな損失だと言わざるを得ない。

筆者としては、上与那原さんが積み重ねてきた実績と、彼が体現していた「再起」のメッセージこそ、これからも語り継がれるべきだと感じている。

その歩みが、まさかもう一つの交通事故によって断ち切られてしまったという事実の重さを、私たちは軽く見てはいけないのではないだろうか。

同じ道を走る後進のレーサーたちが安心して練習できる環境が整うことこそ、上与那原さんへの何よりの追悼になるはずだ。

沖縄の陸上関係者からは、上与那原さんが積み上げてきた実績と歩みを次の世代へどう継承していくかが、今後の大きな課題になるという声も出ている。

T52クラスと競技用車いすの仕組み

パラ陸上の「T52」というクラス表記は、下肢や体幹の機能に障がいがある選手向けの車いす種目を示す分類のひとつだ。

上与那原さんが出場していたのはこのT52クラスで、マラソンから400メートル、1500メートルまで幅広い距離に対応してきた。

競技用車いすはロードレース用に開発された特殊な3輪構造で、条件が良ければ時速30キロ以上に達することもある、一般の車いすとは全く異なる乗り物だ。

こうした特殊な形状であるがゆえに、後方からのドライバーにとっては距離感や速度感がつかみにくいという課題も抱えている。

車体の座席位置が低く、一般的な自転車よりも全長が長いことも、後続車から見た際の距離感をつかみにくくする一因とされている。

まとめ

上与那原寛和さんは、28歳での事故を乗り越え、32歳から車いす陸上に挑み続けた末に、沖縄県勢として初めてパラリンピックでメダルを獲得した先駆者だった。

4大会連続出場という記録を持ちながら、55歳になっても世界選手権でメダルを獲得するなど、現役選手として第一線に立ち続けていた。

その歩みが、練習中の追突事故という形で突然断たれてしまったことは、あまりにも痛ましい。

今回の事故を教訓として、競技用車いすの視認性向上や公道練習環境の整備が進むことを期待したい。

Wooder

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